この一冊でお寺が丸わかり
お寺の教科書
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2017.09.26
この秋、東京国立博物館にて特別展が開催されるなど、運慶が注目を集めている。今からおよそ800年前の鎌倉時代に活躍した天才仏師・運慶。東大寺南大門で睨みをきかせる金剛力士像(阿形像)はあまりにも有名だが、運慶の銘記がある、像内納入品や同時代の信頼できる古記録(吾妻鏡など)から裏付けがとれるなどの観点から、現存する運慶作の仏像は実は数が少ない。
そんな貴重な作品のひとつが、称名寺光明院(神奈川県)の大威徳明王像だ。称名寺霊宝のひとつとされ、狩野探幽によるスケッチを集めた『探幽縮図』にも描かれている。
平成18年から19年に行われた保存修理により、大威徳種子等及梵字千手陀羅尼の巻物、蓮実製舎利容器や丁子、抹香などの像内納入品が取り出された。その中の大威徳種子等及梵字千手陀羅尼の奥書から、本像は甲斐源氏加賀美遠光の娘で、鎌倉幕府将軍源頼家(二代目)・実朝(三代目)兄弟の養育係を務めた大弐局(だいにのつぼね)の発願によって造像されたと記されていた。
本来は六面六臂六足で、水牛の台座に跨った姿だったが、水牛座や腕など破損も多い。しかし、その太づくりで引き締まった体つき、面貌の恐ろしげながらも端正な趣きに、運慶の作風がよくみてとれる。卵形の顔に、目鼻口を中央に寄せて、やや沈鬱ともいえる面貌を表すのは、興福寺北円堂の弥勒仏坐像に近しい。
1212(建暦2)年の興福寺北円堂諸像が、かつては運慶最晩年作とされていたが、それをさらに4年下る最晩年の作品となる。彫刻家・藪内佐斗司さんは、「小像ながらひとめで運慶とわかる凛々しい表情から、彼が生涯瑞々しい感性で制作にあたっていたことが想像される」とこの仏像の魅力を語る。
ところで、これほどまでに有名な運慶の作品が極端に少ないのはなぜだろう? 限りなく運慶作だろうと推察されるものを含めても数十体しか現存していない。そのあたりを、同じ時代に活躍した仏師・快慶との関係性から、みうらじゅんさんはこう考えている。
「数の少なさと知名度が相反しているので、恐らく運慶がクライアントのウケがよくなく、造ったけど納品できなかったり、行き過ぎたものがあったのではと僕は想像しています。反対に快慶の仏像がたくさん残っていているのは、クライアントがよしとする仏像が造れたから。
高野山の八大童子像シリーズは、元となった図案はあったとしても、実際に見た人がいません。だから、よりリアルにしてもクライアントは文句は言わない。運慶作と伝わる四天王像も邪気のクオリティがとても高いじゃないですか。ここぞとばかりに想像力を発揮して造ってますね。もしかするとクライアントも、天部や明王だったら運慶で、メインの如来や菩薩は快慶で、って思っていたかもしれません。
今の若者に通じるところもあるけど、運慶には『好きなものだけでは食えない。仕事だから合わせなきゃいけない』みたいな葛藤があったかもしれません。解説書には書かれていないけど、運慶の内面みたいなものが仏像から感じられる。だから運慶はオンリーワンなんです」
この時代、王道であった快慶に対して、個性派の運慶。およそ800年の時を経ても多くの人を魅了する運慶の作品は造形の素晴らしさはもちろん、時代背景や人間関係など、実にドラマチックで、そんな風にあれこれ想像力を膨らませられるところも、運慶作品の魅力を増している要素のひとつだろう。
(出典:『究極の美仏 運慶と快慶』)
(K)
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