ジブリファン必見!
山本二三百景
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2018.01.12
大政奉還、そして王政復古の大号令を経て明治新政府が発足した。江戸幕府は廃され徳川家は急激に力を失っていくわけだが、その中で新政府軍と旧幕府軍の対立が起こる。そして、約1年半も続く新政府軍と旧幕府軍の戦い(戊辰戦争)の前半戦となった『鳥羽・伏見の戦い』から『江戸無血開城』までにスポットを当てて今回は明治維新を紐解いてみよう。
徳川慶喜は大政奉還によって諸侯会議を興そうとしたが、その計画は薩摩・長州が主導する王政復古によって覆り、明治新政府が発足した。新政府の議定・参与には幕府に近い尾張、土佐、越前などの藩主・藩士も加わった。慶喜追討の密勅も効力を失い、いずれは旧幕府側との調停も行われるはずだった。ところが、江戸で薩摩藩邸が焼き打ちにされると新政府と旧幕府の対立が深まった。そして1868年(慶応4)1月2日、慶喜が討薩を命じて幕府軍15000人が大坂から京都に進軍した。迎える新政府軍は実はこの時4500〜5000人にすぎなかったのだ。
同月3日、京都の南の鳥羽と伏見で薩摩・長州軍と旧幕府軍の戦闘が始まった。旧幕府軍は3倍も多かったが、諸藩の戦意や統制の不足、狭い街道に阻まれるなどで新政府軍に敗北する。
1、鳥羽・伏見の戦い
1868年(慶応4)1月3日、旧幕府軍と薩摩、長州、土佐を中心とする新政府軍が鳥羽・伏見で戦った。幕府軍は、鳥羽と伏見の両戦線で敗れた。
2、淀の戦い
鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れた旧幕府軍は、老中・稲葉正邦の淀藩を頼って立て直しをはかろうとしたが、淀城への入城を断られた。結果、幕府軍は橋本方面への撤退を余儀なくされた。
3、橋本の戦い
石清水八幡宮のある男山の西側(橋本)に、土方歳三が率いる新選組など、幕府軍が陣を張った。地の利が良い場所で新政府軍を迎え撃つ予定だったが、淀川をはさんだ対岸の高浜台場を守備していた津藩が新政府軍に味方し、幕府軍へ砲撃をした。砲撃を受けた幕府軍は総崩れとなり、大坂へと敗走した。
4、徳川慶喜、江戸へ退却
鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れたことを知った徳川慶喜は松平容保(会津藩主)、松平定敬(桑名藩主)らと共に大坂城を脱出して、海路で江戸へと退却した。
徳川慶喜の江戸退去により、旧幕府軍は戦意を失い敗北する。戊辰戦争の戦端を開いた鳥羽・伏見の戦いはわずか3日で新政府の勝利が確定的となったのだ。
(『明治天皇紀附図』宮内庁蔵)
鳥羽・伏見の戦いで新政府側に勝利の見通しはなかった。幕府軍が御所まで攻め込こんできた時は天皇を女官に紛装させて輿に乗せ、山陰に逃れる準備がされた。それを見た公卿たちが驚愕して宮中騒然とするなか、議定の松平春嶽らが「宝輦(天子の乗物)一たび動かば、則ち天下の大事全く去らん」(明治天皇紀)と騒ぎをしずめた。1868年(慶応4年)1月3日、議定の仁和寺宮彰仁親王を軍事総裁とし、翌日、征討大将軍に任じて錦旗・節刀をさずけた。
錦の御旗は天皇の軍であることを示す旗で、南北朝の戦いのときに後醍醐天皇が日輪の旗を掲げて以来、数百年ぶりの復活である。薩摩の大久保利通らが急遽作って薩摩軍が陣を置く東寺で掲げたのが最初だ。はじめは日輪の旗などだったが、やがて菊の御紋章が付けられるようになった。それは官軍の旗印であり、幕府側に対して絶大な威力を発揮した。
昔から戦いのときは旗印を掲げた。新政府側は西洋の国旗風、幕府側は昔ながらの紋所風。実戦において絶対的な権威をもったのは、天皇の錦の御旗だった。
1868年(慶応4)1月6日に徳川慶喜が大坂を脱出した翌日、新政府は慶喜追討令を出した。しかし、関東の幕府側の勢力が慶喜のもとに結束すれば形勢逆転のおそれがある。そこで新政府は天皇親征を天下に宣布する方針を立てた。親征とは天皇みずから軍を率いて出征することだが、天皇が軍を率いるなど南北朝時代の頃にあったくらいだ。そこで天皇は大坂に行幸して関東の情勢の変化に備え、親王を代理として遠征させた。
甲州勝沼の戦い
新選組の隊士を中心に結成された甲陽鎮撫隊。その士気は旺盛であっても、装備の差は埋めがたかった。新政府軍は、4斤山砲(迅速な移動が可能な小型砲)やライフル銃を始め、洋式兵器の威力によって甲陽鎮撫隊を圧倒した。
各地で勝利を収め、東海・東山・甲州の3州から江戸に進軍する新政府軍。新政府は1868年(慶応4年)3月15日を期日にして江戸の総攻撃を命じる。その直前の13日から翌日にかけ、東征軍参謀西郷隆盛が江戸高輪の薩摩藩邸で幕臣の勝海舟と会談。江戸城明け渡しを決して、徳川慶喜は水戸に退去することになった。
江戸城明け渡しが決まり、新政府軍の江戸総攻撃は中止された。このような無血開城は世界史上でも稀なことだった。
江戸開城後、戦いは東北・北海道へと移っていく。約1年半続いた戊辰戦争の中で前半戦ともいえる初戦となった鳥羽伏見の戦いに勝ったこと、そして無血開城によって江戸の街が戦火を免れたこと。この歴史上重要なターニングポイントに西郷隆盛が深く関わっていたのだ。
●外川 淳(監修)
1963年、神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専修卒。歴史雑誌の編集者を経て歴史アナリストに。戦国から幕末維新までの軍事史を得意分野とする。歴史ファンとともに古城、古戦場、台場を巡る「歴史探偵倶楽部」を主催。主な著書に『愛蔵版 地図から読み解く戦国合戦』(ワック)、『城下町・門前町・宿場町がわかる本』『早わかり戦国史』(ともに日本実業出版社)、『完全制覇 関ヶ原大合戦』(立風書房)、『歴史現場からわかる河井継之助の真実』(東洋経済新報社)、『名言で読む幕末維新の歴史』(講談社)、『しぶとい戦国武将伝』(河出書房新社)、『信長 戦国城盗り物語』(大和書房)、『新説前田慶次』(新人物往来社)、『戦国時代用語辞典』(学習研究社)、『坂本龍馬 手紙にみる真実の姿』(アスキー新書)などがある。
(出典:『図解 明治維新』、監修:外川 淳、CGイラスト:成瀬 京司、イラスト:あさい らんこ、カワチ・レン)
(ヤマダタケシ)
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