人体は不思議なことだらけ
想定外の人体解剖学
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2019.03.02
「一番好きな臓器は腎臓です。これほど誠実で責任感のある臓器はない。形で見たときに、非常に複雑で精密な構造がひとつの臓器に詰まっています。あれだけで多種多様な細胞が集まって、秩序ある構造を作っているのは、脳を除けば腎臓に敵うものはないですね」
そう語るのは、解剖学の第一人者である坂井建雄順天堂大学医学部教授。多くの著書も手掛けており、『想定外の人体解剖学』(エイ出版社)では、ユーモアたっぷりに人体の仕組みを紹介してくれている。自身が一番好きだという腎臓については、なんとも愛おしそうにこう続けてくれた。
「脳の働きは歴然ですが、形と働きが直結しない。それに対して腎臓は、形が働きに直結している。糸球体でろ過をして、尿細管で尿を運んで、しかも糸球体の中でろ過をするために圧力をかけるでしょ。その圧力を支えるために、糸球体の中の構造ががんばっている姿を顕微鏡でみると健気だなって思います」
人格ではないが、臓器の役割やキャラクターを分かりやすい表現で聞くと、なんだか親近感がわいてくる。
坂井教授はもともと医学の道を目指していたわけではなく、高校生の頃は地球の進化や歴史など地球物理学に興味を持っていた。しかし、東大で物理学を学んでいた9歳年上の兄から、「理学部に行っても飯は食えねえぞ。やりたいことがあったら医者になってからやればいい」と助言され、東大の医学部へと進む。
「人体に興味を持つきっかけとなったのは、医学生になって、人体解剖をはじめて体験したのが大きかったです。それが原点でしょうね」
そして、たまたま出入りするようになった解剖学教室の先生たちは、心優しく、博学で、そういう人たちと触れ合ううちに解剖学はいい学問だと思うようになったという。
「人体を知るってことは、世界を知る。博物学というか、学問の根源のような楽しさがありました」
人体解剖を初めて見たときのことを尋ねてみると、静かなトーンの語り口でその時の様子を教えてくれた。
「まずひとりの人間の体があったわけですよ。人間の死っていうか、……初めて目にしたときは衝撃でした。そこから、皮膚を切り開いて体の中の世界に入っていくと、そこはもう人間というよりは、人間を作っているパーツということで、人間の存在をそこまで激しく感じるほどではありませんでした」
それから学生を教える立場となり、年間30体、40年でおおよそ1200体の解剖実習を行なってきた。「体の中には、ある種の美しさであったり、自然の作る造形の仕組みだったりがあって、本当に素晴らしく、興味が尽きません」としながらも、“ひとりの人間がそこにいる”という感覚を持つ場面がいくつもあるという。
「手つかずのご遺体を目の当たりにすると、時にはやはり緊張するというか、ひとりの人間の姿がそこにあるということに大きな圧迫感や衝撃を受けます。体の解剖を進める順番は頭が最後なので、顔には頭巾を被せて見えないようにしています。首から下の解剖が終わって、顔の解剖を始めるときに、やっぱり人間だなっていう感覚があって。首から下を隠して顔だけみると人間であるということが歴然と分かります。逆に首から上を隠して下を見るとやっぱり解剖されている体で、両方いっぺんに見るとものすごい違和感があるんですよ」
これまで医療関係者以外で臓器やその働きについてさほど興味を持つ人は多くなかったはずだ。ところが近年、多くの人が人体について興味を持ち始めている。その理由について坂井教授は、「医療と一般の人との距離が近くなったから」だと推察する。
「昔は患者さんが何も考えなくても医者に任せておけばよかったのですが、今は診断技術が上がってきて患者さんに病気のあり方を示す材料が増え、患者さんの意向を聞いて治療方針を決めるインフォームドコンセントが広がってきました。患者さんも受け身ではなくて、医者から情報をもらって考えて健康や生命について選択をする時代になってきましたよね。そうすると人体について知っておくことが有用であるし、実際に画像診断で臓器や体の中が見えるようになってきているので、自分の体の中、人体の中を知っておきたいというニーズが増えているんだと思います」
さらに、私たちが人体について知っておくメリットをこう説いてくれた。「健康を保つためにはいいことで、例えばタバコは良くないと分かっていても、タバコがどれだけ肺を痛めつけるか、肺がどれだけかわいそうかということも分かっていると、控えられる意欲も高まってくるでしょう。毎日運動すると心臓も血管も元気になるといいますが、自分の心臓や血管の仕組みを知っていれば理解が進みより健康になれます」
そんな坂井教授はというと……、忙しくてなかなか日常的に運動できてはいないものの、毎朝スクワットやストレッチをして体を動かしているとか。特に足腰が明らかに弱くなってきていると感じていることから、スクワットや足の屈伸運動は意識的に行っているそうだ。
最後にどうしても聞いてみたい質問を投げかけてみた。坂井教授を困らせてしまったその質問は「人はアトムを作れるか?」というもの。ロボット技術やAIの進化によって、アトムのように人間のような動きをし、他人を思いやる感情を持ったロボットは作れるのか解剖学の見地から聞いてみたかったのだ。
「見た目は人間っぽい動きをするものはできるんじゃないでしょうか。ただロボットは人間のように生命を維持する必要はない。自動車が人間っぽくなったと思えばいいかな、と。自動車には腎臓のような特別な仕組みは必要ありませんから。それが人間のような感情を持ち合わせるものになりえるかというと……それは違うんじゃないかと思います。見た目でそういう印象を受けるものはできるかもしれない。憎悪や喜び、共感などは感じるものであって、脳のどこかにはあるんだと思いますが、感情の実態はよく分からなくて。例えば、人に影響を与えるような、人を攻撃するような怒りの感情のようなものを、操作して作ることはできるかもしれない。だけどそこに感情があるのかというと分からないですね」
まだまだ解明されていないことがあるからこそ、探究心も衰えることはないのだろう。そしてこんな突拍子もない質問にも誠実に考えを述べてくれる人柄に、「腎臓のような方だな……」と思ってしまったのはここだけの話だ。
●坂井建雄(さかい・たつお)
順天堂大学医学部教授。1953年大阪府生まれ。1978年東京大学医学部卒、1986年東京大学医学部解剖学教室助教授を経て、1990年より現職。主な研究は、人体の解剖学と細胞生物学、解剖学史・医学史。著・訳書は『からだの自然誌』『カラー図解 人体の正常構造と機能』『プロメテウス解剖学アトラス』『ぜんぶわかる人体解剖図』『標準解剖学』『人体観の歴史』など専門書から一般書まで多数。
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