この一冊でお寺が丸わかり
お寺の教科書
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2019.03.20
南都七大寺の代表的な寺院・東大寺。奈良へ旅行した方なら一度は訪れたことがあるだろう。しかし、修学旅行や個人旅行で訪れても、「奈良の大仏」だけを拝んで終わり、というのはとてももったいない! なぜ東大寺法華堂を拝観すべきなのか、その3つの理由をお届けする。
東大寺は平安時代末にあった平重衡の焼き討ちや、戦国時代にあった三好三人衆と松永久秀の兵火により、ほとんどの建物や仏像が失われてしまった。しかし、山上に位置していた法華堂は奇跡的にそれらの危機にあうことなく、東大寺創建時に造像された8世紀の仏像を代表する名作が今に伝えられている。現在、法華堂には国宝に指定されている仏像が十体もある。不空羂索観音像・梵天像・帝釈天像・金剛力士像(阿形・吽形)・四天王像・執金剛神像である。なお、かつて不空羂索観音像の左右に安置されていた(伝)日光菩薩像・月光菩薩像は、今は東大寺ミュージアムに移されている。
このように多種多様な仏像が造像された背景は、経典に記された内容から考察することができる。不空羂索観音像の周囲に梵天・帝釈天・四天王・執金剛神を配置する典拠は、護国経典として知られる『金光明最勝王経』巻第七の如意宝珠品にあるらしい。厳密に言えば如意宝珠品の主人公は観自在菩薩だが、この観自在菩薩を不空羂索観音に入れ替えれば、ほとんどそのまま法華堂の諸尊配置になる。そして、法華堂の本尊の不空羂索観音が、胸前で合掌する両掌の間に、如意宝珠に通じる水晶珠を挟んでいる。この事実から推して、諸尊配置の典拠が「如意宝珠品」にある可能性はかなり高い。
なぜ法華堂の歴史から東大寺創建の歴史が分かるのか。それは、法華堂が東大寺の前身寺院と深い関係があるからだ。現在の東大寺が立つ地には、もともと金鐘山寺(金鍾寺)という寺があった。この寺は、聖武天皇の皇太子であった基王の菩提を弔うために建立されたもの。724(神亀元)年2月に二十四歳で即位した聖武天皇は、三年後の727(神亀4)年10月5日に待望の男子を授かり、基王と名付けた。基王は、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた唯一の男子であり、正統な後継者を得た聖武天皇の喜びは尋常ではなかった。従来の慣例にとらわれず、生後間もない時点で皇太子に立てられている。
ところが、不幸なことに基親王は728(神亀5)年9月、満一歳になる前に死去。悲嘆に暮れた聖武天皇と光明皇后は、親王の冥福を祈らせるために一寺を建立し、後に東大寺の初代別当(代表者)となる良弁ら九人の僧侶を住まわせた。親王の逝去からわずか二ヶ月後のことである。
その後、741(天平13)年に、その頃平城京の北東に恭仁京を造営していた聖武天皇から、「国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華寺)建立の詔」が発せられると、金鍾山寺の寺格があがり、寺名を大和金光明寺と改めた。この寺こそ東大寺の前身寺院に他ならないのである。
法華堂の仏像を拝み、歴史を学んだら、外側から建築を観ることも忘れずに。前述のとおり、火災による焼失を免れた法華堂は、現存する東大寺の建築の中ではもっとも古い建物である。太い柱、白い土壁、屋根の様式など、建築ファンにはたまらない要素がある。現在のお堂を写真のとおり横から見てほしい。軒に配された瓦の線をなぞってゆくと、1か所だけ山なりになっている箇所がある。そこが重要なポイントだ。山なりの箇所から向かって左方の部分が、本尊をはじめとする諸仏を安置する正堂。山なりの箇所から向かって右方の部分が、参拝者が入ることのできる礼堂。この二つの堂をつなぐ部分は「造合い」と呼ばれている。
建築様式は正堂が寄棟造の平入り。礼堂が入母屋造の妻入りである。現在は、正堂部分が奈良時代の建築で、礼堂は鎌倉時代に付加されたことが判明している。また、正堂が建てられた当初は、正堂と礼堂がつながることなく、前後に並び建つ双堂形式だったらしい。
法華堂を拝観すべき3つの理由、仏像・歴史・建物をマスターすれば、東大寺のさらなる魅力に気付くに違いない。大仏だけで満足していてはもったいない! これから東大寺を訪れる人も、もしくは東大寺へ再訪する人も、「奈良の大仏」に加えて法華堂を拝観してみてはいかがだろうか。
(出典:『奈良傑作美仏大全』、写真:帆足てるたか)
(仏像探訪編集部 竹内)
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